私達の周りには脳が作り出す世界が広がっています。私たちはどのように知を紡ぎ世界に関わり合って生きてきたのでしょう私たちは何者かかそしてどう生きていくのでしょうか
D'où venons-nous ? Que sommes-nous ? Où allons-nous ?
私は認知科学はこの問に哲学ではなく科学として向き合える唯一の選択であると考えます
経験と自己定義そして選択する未来。
複雑で予測不能な状況の中でより賢い選択を行うためには私達が偶発的な環境の中でいかに知を生み存在し意味の力で困難を乗り越えていくのかを良く観察しながら自らの運命に近づいていくことを考えたい。
退任と脳卒中という大きな喪失に直面したとき私はそう気づいたのです。
私達は高性能CPU(中央演算装置)を積んだコンピュータでも、充分な機械学習を積んだAIでもありません。しかしながら複雑で変化に満ちた環境の中にあってしなやかに知を紡ぎながら未知の状況で選択し賢く適応しています。私達は適応しながら状況に働きかけて状況を変えていきます。私達は自分は自分ででありたいと強く願うあまり本当の自分不変の自分という存在を作り上げ、能力やスキル・キャリアをそこに飾り立ててていきます、しかし私達は素の状態でも賢さを発揮出来る素晴らしい存在なのです。哲学で言う、賢さとは、脳科学で言う我慢(制御)と遂行の選択であるとも言えるのかもしれません。知の本質や賢さの研究を通じて適応の構造を解明できれば、人と組織、コミュニティを取り巻く多くの問題や課題を解決出来るに違いません。その信念ぼもとで認知科学によって困難に向き合っていくのです。
ブルックス(1991, p.143)は人工的な生き物を作るにあたって四つの必要条件を挙げている。 生き物は、動的な環境の変化に対して適切かつ適時に対処しなければならない。 生き物は、環境に対してロバストであるべきである……。 生き物は、複数の目標を維持可能であるべきである……。 生き物は、世界の中で何かをなすべきである。つまり、何か存在目的をもつべきである。 ブルックスの作る「生き物」は、個々の活動を生み出すサブシステムがいくつか集まってできている。このサブシステムを「層」と言う。この層は、入力を明示的なシンボルによってコード化したり、あるいは入力をコード化しなおして別の層に伝えたりはしない。そうではなくそれぞれの層が、それ自体で入力から行為までの経路を完備しており、個別の層のあいだでの「コミュニケーション」はちょっとしたシグナルの受け渡しに限定されている。ある層が別の層に対してできるのは、その活動を促進・妨害・無効化することである。このようにしてできる機構をブルックスは「包摂アーキテクチャ」と呼んでいる(なぜなら、層はもう一つ別の層の活動を包摂することはできるが、それ以上の詳細なコミュニケーションはとれないからである)。 すると三つの層から生き物と呼べるものが作れる(Brooks 1991, p.156)。 この方法の重要な特徴は、層を一つずつ積み上げていくことができる点である。層を加えていっても、いつも全体で一つの生き物として機能する。注意すべきは、こうした生き物は、データの中央貯蔵庫や、中央計画器あるいは中央推論器に頼っていないということである。その代わりとしてあるのは、「競合しあう行動のコレクション」であり、それが環境からの入力によって統制されている。知覚と認知のはっきりした線引きはない。知覚入力をどこかの点で中央集権的コードに変換し、さまざまなオンボードの推論装置で共有することもしていない。このような、単一目的の問題解決器が複数あって、それが環境からの入力と比較的単純な内部シグナルによって統制されているというイメージは、神経科学的にもっともらしいモデルであり、それはもっと高度な脳についても同様である。以上アンディ・クラーク現れる存在より。
ブルックスのこの指摘は多層的な自己がどのように一体化されているのかという問いに示唆を与えてくれます。